『ボンベイ』を贔屓に我が親友へ

 

99年1月6日、『ボンベイ』に行った。

どれくらいぶりだろう。
柏に足を降ろしたときから浮き足立って仕方なかった。
『ボンベイ』に行ける!
今日は木曜日…。営業日!
しかし、油断は禁物。
年明けだし、久しく行ってないので油断は出来ない。
店の近くの角まで行くと休業日とは比べものにならないくらいカレーの匂いが漂っている。
それでも、自分を安心させない。
角を曲がって他の客が入っていく姿を見て初めて安心し、安心と反比例し、心臓が更に高鳴る。
他の客がガラスドアを押し入るとドアにつけられている懐かしい鈴の音が聞こえる。
手荷物の重さも忘れて足早に歩いていく。
短い距離なのに後から来る客に抜かされないやしないかと足早に歩く。
己が鈴の音を鳴らす。

 店の外でも漂っていたスパイスの香りはドアを開くと、もう言い当てることができるくらいに際だつ。
カウンターもテーブルも賑わっている。カウンター越しにキッチンは忙し。

来たぜ来たぜ。

「いらっしゃいませー、お一人ですか?カウンターどうぞ。」バイトの伝統の口調。
バイトも何代もみてきた。
そして…。

「あら!」

おかみさんは己のことを覚えてくれている。かなり久しぶりだというのに。
「どうも…」ポツリと応える。
鈴の音をくぐると己はボンベイ用の人格に着替える。それはあいつと共に編んだイメージ。

広くはない店内、人混みを分け入るようにして空いた席に辿り着く。
安定しているとは言えない、黒の丸イスに腰元を確認しながら座る。
目線を上げる。
メニューは視野に入っていないも同然。
「ビーフ、辛口、大盛り」他の客の人垣越しにバイトに伝える。
今日はやはり[辛口]だろう。

黒いカウンターに客がずらっと並んでいる。
少し腕が触れるくらいの間合い。
テーブル席もあるからそこならゆったりと食えるが、己はカウンターの方が好きだ。
食い気が密集している。
客は見たことがある人もいれば全然新しい人もいる。
「テレビが来て以来、結構忙しいのよ。」
いいことだ。繁盛してくださいな。
タマネギとピクルスがでてくる。タマネギを全部スプーンに乗せ一気に口に放る。相も絶妙の酢加減。
「ホント久しぶり」
「そうだね」

ご飯が出てくるペースが己の想像より少し遅い。
混んでるから仕方ないか。
ピクルスもいくつか口に放った。あの頃のポリシーはポロポロと崩れている。

「一月はいつからやってんの?」
「3日よぉ」
「おお、気合入ってンねぇ。」
「そうよぉ」
新しい冷蔵庫が入ってる。
何をするでもなくただ待つ。

「大盛りになります。」
いつも通り先にご飯が来る。
己は意に介さず姿勢を崩さずご飯を持ってきたバイトの顔も見ない。
そのまま扇ぎもしない。ご飯が目に入っていないかのよう。

「ビーフになります。」
来たぁ。
バイトが置きにくそうに己の腕を回ってテーブルに置く。
いつもの銀の皿で出てくる。
さて、手始めにスプーン四杯分くらいのカレーをご飯に塗る。
さあいただきます……。

!!

ご飯がやわらかい。
パサついてるくらいの方がうまいのに…。
残念だ。
おかみさんに伝えたかったが他に客がいっぱいいるし自分だけ常連みたいな顔をするのも何かと思ってやめた。
しかし相変わらずのこのソース。絶妙のコクだ。
そしてこのビーフ!ホントにホントに柔らかい。とろけるというのがこれだろう。
うまい!うまいうまい!!
相変わらずだ。
変わらぬ味。うまい!大好きだ。
顔にはそんな表情は出さないけれどホントにうまくて仕方ない。嬉しくて切なくて。
再度、銀皿にスプーンを沈めソースをすくう。
うまい。
タン・タタ・タンと食のリズムを刻み続ける己におかみさんが「木村君、年末に来たわよ」
え?
「奥さん連れて」

食後のコーヒーサービスがまた嬉しい。
己は砂糖は入れない。濃いめのうまいコーヒーだ。
絶妙。
おなかに溜まらない上品なコーヒー。
昔と同じように静かに呑む。

キムも最近来ていた。

会いたかった。
一緒に食べたかった。
キムに会いたかった。
いつか、またいつか…。
ふとここで会えることを己は信じている。
顔も見合わせず、ニコリともせず二人でカウンターに座って沈黙し、カレーが出たらガッと食べる。
いつかその日が来るだろう。
己は残りのコーヒーをグッと飲み込み、勘定を済まし、「ごちそうさん。」
黒のコートを引っ被ると店を出た。
辛さに吹き出た汗が冬の外気に触れ、その時の温度差がまたすがすがしかった。

了)