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08.08.15 金曜日
絶極呑み
極まった呑みだった。
絶対に極まった呑みだった。
何年かぶりかあるいは初めてこんな呑みをした。
“嬉しい好漢”谷口正俊、“小さくてもピリリと辛い小岩”佐々木孝仁と3人で呑んだ。
遂に佐々木が己の職場の見学に来て、近くの屋外で呑んだ。
佐々木が入口に着いたので迎えに降りるべく屋外へ出た時、
月光がこうこうと己を照らし、その己の影と満月が杯を交わしているのがみえた。
「今日の呑み場はこれで決まりだな」と確信した。
これ以上のバーは全国を見回してもそうそうにみつからないように思われた。
コンビニで酒とつまみを買った。
絶対コンビニでなければならなかった。
どんなにうまい生ビールでも勝てないと思われた。
屋外でこうこうと照らされながら3人、ぷしゅりと缶にヒビを入れた瞬間、
極[き]まって堅[かた]まって時が止まった。
永遠という言葉が存在する。
永遠という言葉はどこか崇高な憧憬の感をもっている。
「真理」だとか「幸福」だとかいった言葉と肩を並べる言葉であるようだ。
だが、大きく誤解されていると思うことは
永遠というものは「永く遠く」「続く」「時間」だと誤解されているのではないかということだ。
そして、生きているうちにはお目にかかれないようなどこかお伽話のような観念だと思われているのではないか。
否定したい。
そうではない。
そもそもが、時間など存在しないのだ。
我々の脳が勝手に解釈しているに過ぎない。
我々は一枚の絵に跳び込んだ冒険者のようなもの。
もともと静止したものの歯車を脳がぐるぐると回転させているに過ぎない。
永遠とは瞬間にのみ存在する。
瞬間に「永くて遠い」遠大さが凝縮されている。
その遠大さは、その次の瞬間に残響音を味わせる。
己は今日の呑みで何度も永遠を知ったよ。
すべてが極[き]まっていた。
谷口と佐々木の口から出てくる言葉、言葉を聞きながら己が目にする風景、
風が吹くのも、缶が倒れて音がするのも、不意に鳴り響くトラックのクラクションも、
月明かりを背後にして伸びゆくおのれが影の長さ、濃さ
すべてが
すべてが一瞬前に分かっている。
すべてが予定の調和。
谷口に質問された佐々木がどういう思考経路でなんと答えるか
そのあと、佐々木が何秒の間をもたせてどういう独り言を吐いてから
どんな質問を切り返すか
すべてが
極上のプロレスのメーンイベントのように。
ここでこうきて、それをかわして、こうキまってくれたら最高なのに!
あッ!そう!そう!やった!
何百年もの間、腐らずに我々を魅了してきたオーケストラ演奏のように。
何百年も昔から既に音符の配列は決まっているのに、我々はけして飽きずに
演奏の再現に胸を高ぶらせる。
音符ひとつさえ修正されることはなく、けして修正されてはいけない!
まるで宇宙の共有フォルダに入っているかのように熟知されたものの再現に我々は胸を高ぶらせる。
すべてが
一瞬一瞬がコマ送りのように感じられる。
カチッカチッと一枚ずつ、我々3人の瞬間が絵画となっては消え、またすぐに現れる。
残響音を味わうか味わい終わるかの瞬間でまた永遠。
針の穴を通すような特殊な条件が、4つくらい偶然に満たされてしまったような劇的空間。
なにか、己の中にあった、己の中に長い間あった、
動かせずにいていつかまとまった時間がとれた時に、と放置されていた
ほこりをかぶってそのほこりの具合までがインテリアとなってしまった巨[おお]きくて重たい荷物を
今日ようやっと本腰をいれてずりずりと所定の場所へ移すことができたようなそんな感覚をもって
己は今日の呑みに感謝した。
投稿者 多苗尚志 : 2008年8月15日 00:05編集
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