縁
06.07.21 金曜日
藪下数馬壮行会
己の大好きな倭(おとこ)、“正統な異端者”森村隆行(森さん)に弟がいることは早くから聞いていた。
一緒に中国に旅行にいった話を聞いていて、その旅行記が気合武勇伝的で己好みで
その弟に会いたいと思っていた。
それが“若社長”森村泰明。
やすあきと己は同い年である。
やすあきとはいつが初対面か覚えていない。
どこかで森さんに紹介してもらった。
が、そのごくごく初期、渋谷のぷん楽で森さんとやすあきと3人で呑む機会があった。
ちょうどやすあきはそれまで勤めていた不動産ディベロッパーの会社を辞め、
自分でオフィス専門の不動産会社を設立。
それが「オフィスバンク」だ。
その独立の話を3人でぷん楽でしていたら、突然森さんが
「あ!」
「ひさしに取締役になってもらったら?」
今は違うが、当時は会社の設立に3人以上取締役を立てなければならず、
それにお母さんがなるはずだったのだが、あまり血縁をいれたくないと思っていて
どうしようかと思っていたところだったのだ。
己はホレ、出会って2回目の“柔らかい頭領”佐藤孝治に「多苗君も僕たちとルームシェアしませんか?」と言われて2日後に住んでいるような
『向かい来るオファーは全て受けきる侠』だからさ。
(※利害が見え見えだったり、礼と義を失したオファーは受けない。)
「はぁ」っつって取締役になった。
オフィスバンクと己の関係はそんなものに過ぎなくて
それでも、一応取締役だからってことで、忘年会など各種祭礼や節目の時なんかは
お呼びがかかる。
長くなったが今日は、そんな日だった。
社員の藪下数馬がオフィスバンクを退職するので、その壮行会があった。
まさに森村泰明と会っていなければ、森村隆行と会っていなければ
藪下氏と己の接点はなにもなかったわけで、奇縁に感謝である。
己は一応、取締役だから、やすあきひとりで、1人用のワークスペースにいた時から
知っている。
どんな会社になっていくのかと思ったが、今では社員も15人を越えた。
そして、今ひとりが新しい旅立ちに向かって辞めようとしている。
己は、普段のオフィスバンクも最近のオフィスバンクも知らない。
藪下数馬とも「おー、藪ちゃん」とあいさつは交わすものの特に語り合ったこともない。
静観する。
森村泰明率いるオフィスバンクは成長していて
社員も、社の文化もすばらしいものがある。
藪下数馬の壮行会はすがすがしい涙にあふれていて、
己は
「熱血の者」「努力の者」「成長する者」「本気で生きる者」たちを
目の当たりにしたのだった。
すごい
すごい
会社ってすごい。
メチャクチャ熱い。
ドラマみたいな展開が居酒屋劇場でバシバシ繰り広げられていたよ。
スゲェいいものを魅せてもらいました。
藪ちゃん、いってらっしゃい。楽しんで生きていこうな。
投稿者 多苗尚志 : 22:24
| トラックバック (0)
[ 栗原義徳伝
・村野茉文伝
・藪下一馬伝
・森村隆行伝
・森村泰明伝
・佐藤孝治伝
・株式会社オフィスバンク伝
・縁
]
06.05.26 金曜日
太陽モーニング
■友いるバックグラウンドストーリー
※友いる筆者の多苗本人以外の視点で物語を編んでみます。
憶測の部分もあることを予めご了承下さい。
その倭[おとこ]は昔、“釈迦力小僧”と呼ばれていた。
「眠い」とか「腹減った」とかは言うけれども、彼が「疲れた」と言うのを聞いた者はいない。
彼は異常なまでの無尽蔵の元気でシャカリキに毎日を疾走していた。
その小僧は南米に丁稚奉公に渡り、その元気を太陽のレベルまで高め、順調に出世し王子になって
還ってきた。
“太陽王子”岩下均である。
これは彼が“釈迦力小僧”とすら呼ばれていなかった頃の物語。
1997年
東京都北区は王子で小・中・高と学校が一緒だった“咲花青将”佐藤吉行(当時“受切怠惰”)の部屋に岩下はいた。
高校二年生だった岩下は佐藤と学校の宿題をやっていたがそれを終わらせてみてホチキスがないことに気がついた。
岩下が「買ってこようか」といつもの元気を活かそうとすると
吉行は「いいよいいよ。下にあるから。」と答えた。
吉行の部屋は父親の会社の社員寮の1室であり、五階にあった。
下というのは四階にある兄の“柔らかい頭領”佐藤孝治の部屋のことだ。
佐藤孝治は90年代後半からルームシェアを展開しており、今でいうインキュベーションオフィスみたいなものを兼ねていた。
彼自身、事業を展開しようとしていたし、そこでシェアしている仲間たち、そこに集まってくる仲間たちもそうだった。
岩下も1,2回そこを訪れたこともあったが特にビジネスというものには興味がなかった。
ビジネスというと高校生の岩下にはなにか堅い感じがして、邪魔しちゃいけないという気持ちもあった。
今回も部屋の入口で待っているだけだった。
吉行がホチキスをとりにいってるあいだ、手持ち無沙汰だし入口からキョロキョロと室内を伺っていた。
パソコンが数台あって「へぇ」とは思っていたが、さして興味はなかった。
カタカタと誰かしらん数名がキーボードを撃つ音が静かに響く部屋の奥で
「ホチキス無い?」という吉行の声が小さく聞こえる。
飲食店用の四面ガラス張りの大きな冷蔵庫がある。
それをみてちょっといいなぁと思う岩下。
自分の大学生活の部屋にもあんなのがあればいいなぁと思う。
と、その時
「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお」と
叫ぶ声が聞こえた。
吉行の声ではない。佐藤孝治の声でもない。
誰か。
ここが堅いビジネスオフィスだと思っていた岩下を動揺させるには充分な叫びだった。
「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお」
叫び声は更に続いた。
吉行がホチキスをもって還ってきた。
(なんなのあの叫び?)と小声で吉行に聞いてみた。
吉行は(わかんない。なんか興奮してる人がいた)と答えた。
「「お邪魔しましたー」」と2人で部屋を出ていこうとする間際
佐藤孝治の声で
「タナエ君、どうしたの?」という声が聞こえた。
「いや!熱いメールが来たッス。」
意味が分からなかった。
四階にもこんな人がいるんだ。
これが岩下均と多苗尚志の初めての出会いだった。
1998年夏
岩下は他の多くの高校生と同様に三年生の夏を受験勉強に燃やしていた。
吉行の部屋で豪田と一緒に3人で勉強していたところ、突然ドアが空いて侠[おとこ]が入ってきた。
ファッションセンスのかけらもないメガネ。寝ぐせのついた髪、よれよれのトレーナー。
岩下はこの侠があの時のタナエであることを直感で感じ取った。
「吉行君、マガジン無い?」
「え?あ、ありますよ。」と答える吉行から多苗はマガジンを受け取るや、
畳にごろりと寝転がりそれを読み出した。
どうみたって受験勉強してる雰囲気の中にいきなりあがりこんできて
寝転がって漫画を読み出す侠に岩下は少なからず驚いていた。
「あ。タナエさん。僕の友達の均と豪田です。」
「ん?」寝ながら目線を向けられ、岩下は
「あ、岩下と言います。」とあいさつをした。
侠はガバッと起きあがると「多苗と申します。よろしくお願いします。」と言って
またごろりと横になった。
「あの、四階にいらっしゃる方ですよね」と岩下が言うと
「うん。そうだよ。」と多苗は答えた。
「大学にいってらっしゃるんですか?」
「うん。三年です。」
「P大ですか?」
「うん、そう。」
「僕もP大狙ってるんですよ。」
「あ、そう!」と大きな声を出すと多苗は起きて座り、岩下を正視した。
すぐに「頑張るといいよ」と言ってごろりと寝た。
いつまでも話していられないので岩下もそれくらいで勉強に集中することにした。
30分くらいすると、受験生同士、情報交換を始めた。
「P大はさぁ、やっぱ英語ができないと勝負になんないよね。日本史とかさ、差がつかないし、
現代文は勘じゃん?」と豪田がいう。
「だよなぁ、やっぱ英語かぁ」と岩下も相槌を打っていた。
多苗に横目を向けると全然気にしてないようで漫画を読み耽っていた。
豪田が続ける。「やっぱ単語力が圧倒的に足りないよな。佐伯とかも言ってたけどやっぱ単語覚えないと
話にならないって。やっぱP大いくんだったら最低3000は覚えないとね。単語分かればあとは大体読めるようになるって。」
「そっかぁ」と言ってると、多苗が漫画を置いて座り、こちらを苦虫を潰したような顔でみている。
『なぜ自分にアドバイスを求めないのだ』とでもいうのだろうか。
岩下はそんなことを聞いたら悪いかなと気遣っていたのだ。
多苗はおもむろにしゃべり出す。
「P大を目指すんだったら、現代文こそやらなくちゃダメだ。現代文は勘だと思ってるだろ。
論理だ。論理が分かればば確実にそれが答えだと説明できるまでになる。英語だって同じだ。
単語はむしろ少なくたって論理が分かれば勝負できる。岩下君、己が使ってた教材とか貸してやる よ。」
1998年冬
四階のインキュベーションオフィスから飲食店が生まれた。
藤沢烈が経営者となった「狐の木」というBarで岩下も高校生ながら時々遊びにいっていた。
多苗はそこでオープニングスタッフをやっていたようだったが2ヶ月でクビになったらしい。
今では王子を離れて大学の近くで一人暮らしをしているそうだが、1ヶ月に1回は店に呑みにくるという。
岩下は彼女と呑んでいた。
呑むといってもモスコミュールくらいのもんで、彼女はノンアルコールだ。
多苗が店に入ってきて、カウンターに座ったのがみえた。
岩下は少し時間を置いてからカウンターの多苗の方にあいさつにいった。
「どうも。」
「おっ!えーと…吉行君の友達のえーと、均君!」
「はい。岩下です。あの…ちっと俺の彼女紹介したくって。」
「ああ、どうも多苗と申します。」
「あと、あの手紙書いてきたんで後で読んでください。」
「手紙?は。ありがとう。わかった。」
岩下は、お金を払うと彼女と共に店を出た。
「手紙ってなんなの?」と彼女に聞かれ、岩下は
「ああ、まぁ、ラブレターだね。
男にラブレター出すのは初めてだよ」と答え、彼女の不審を思いっきり買った。
岩下は、ラブレターとはいうもののまるで緊張しなかったし
水が高いところから低いところへ流れるように
鮭が生まれた川に戻ってくるように
そうすることが当たり前のような、清々しい気持ちで一杯であった。
そのすがすがしさがまた彼女の不審を買った。
店のカウンターには多苗が尚、座っていた。
なけなしの金でスコッチを傾けながら多苗は岩下からもらった手紙を開けてみた。
『これからは受験勉強に集中するので春まで会えないと思います。
必ず合格して春からはタナイ兄貴についていきます。
よろしくお願いします。
岩下均』
多苗がタナイになっているイマイチっぷりはどうかとして、
まぁ、自分も彼の苗字を覚えていなかったのだから。
しかし、なんだか彼は感じるものがあったようで自分についてくるのだということだ。
こっちも彼に正面からつきあってみるとするか。
と、多苗は思った。
岩下は多苗を兄貴と呼んだことはない。
兄貴と字面にして多苗に宛てたのもこれが最初で最後である。
だが、確かに岩下と多苗の歴史はこの日動き始めたのだ。
■友いる出来事
※実際の出来事です。
“太陽王子”岩下均と渋谷で朝食を一緒に摂る。
ちょっと互いに努力すれば朝飯を一緒に喰う時間を作れると知ったのだ。
ほんの30分しか一緒にいられなかったけれど、こいつと一緒に朝飯を食えるなら
至福です。
投稿者 多苗尚志 : 19:44
| トラックバック (0)
[ 岩下均伝
・縁
]
05.10.28 金曜日
縁
奴との初めての出会い
あの縁があったから今がある
そんな話がこちらの『縁』のカテゴリになりやす。
投稿者 多苗尚志 : 23:57
| トラックバック (0)
[ 縁
]
和田清かとの縁、私には夢があるとの縁
今では随分有名だが「私には夢がある」という会社がある。
“夢プロデューサー”和田清かが会長をつとめる会社。
己はこの会社の一番古株のスタッフだ。
その縁をたどってみよう。
“黄炎社長”森田英一とは古くからの友人である。
その彼に、2002年の3月だったか…彼女ができたから紹介したいと言われた。
それまでわざわざ紹介されたことはなく、これはただごとではないなと思った。
京王線か東横線のどっかの町だったなぁ。
当時はその沿線に明るくなかったので忘れてしまったが、どっかにあった
彼女の家に招待された。
そこで出会ったのが和田清かだった。
招待されていたのは己だけではなくそこで
“駆け抜ける麗玲礼”山西礼子
江澤博己
“大将”池本多賀正
“ギャオギャオなギャオス”長尾好則
“Dreamtextwriter”岩村匠
和田聖翔
といった現在の己の日常生活にも影響のある超豪華なメンツにそこで一気に出会う。(感謝)
清かは己のことを知っていたらしく、年下のくせに初対面から呼び捨てにしてきた。
自分は特別だと思っていて誰だろうがさやか節でぶつかるさやからしい行動だが、
こちらとて“最強無敵”の看板の多苗尚志。
相容れるわけがない。
バッドファーストインパクトだったがまぁ印象には残った。
当時、さやかも己も無職だった。
さやかは起業したいと思って会社を辞めたところだった。
己は仕事なんかしないで友達と毎日遊んでいたいと思って会社を辞めたところだった。
さやかと己はメールをやりとりするようになった。
お互いパラノイアのようにメールを返信するタイプで、ただ一言「了解」なんてメールにも無理矢理返信を続けるのでいつまで経っても往信が途絶えず、
別件で新しくメールを出すとそれがまたずっと続くといった感じで今も続いている。
(一番最多で205往復目。全部足せば1000往復を超える。)
彼女とのメールのやりとりには印象的な思い出がある。
さやかが起業したいけどやっぱり怖くてなかなか行動に移せないというメールをくれていて
己も同じようなものでイマイチなにがやりたいか分からないし、行動あるのみだと思うけど、
なかなか行動に移せないという返信をした。
フツー、ここで「ねぇ~、なかなか現実難しいよねぇ」みたいな感じで収束するようなもんだが、
さやかはその恐怖を乗り越えちゃんと「私には夢がある」を起業した。
クチだけじゃなくしっかり結果を出す彼女と結局クチで終わってる自分が見事に対照的だった。
さやかはなんにもしないでいるんだったら…と己を第一回目の夢あるセミナーに誘ってくれた。
己は「興味はあるけどお金がなくて」とココでもチキン発言を返したが
さやかが「大丈夫。お金なんて要らないから。それでもしよかったら、受付をやってね。」
と言ってくれた。
さやかだって金があるわけではない。
己はさやかの心意気に感激し、受付をつとめ、以来、夢あるでは“コンプレックスを太陽に変えるひまわり”岩崎久美と同じく最古参のスタッフである。かつ己は最も出席しないスタッフでもある。
更に最も夢あるから受けた恩恵を語らないスタッフでもあるが…
よくよく思い返してみると、その恩恵は多大だ。
“スピードの哲人”清水宣晶とはその後の森田英一・和田清か結婚式で出会ったから正確には夢あるでの出会いではないにせよ、その他のすばらしいスタッフとの出会い、スタッフではなくても夢あるを通して出会った方々とのつながり、夢あるセミナーによる様々な気づき。
さやかと出会っていなかったら、更には夢あるとつながるチャンスをこっちから斬ったのにそれを向こうからあきらめないでつないでくれるというさやかのすばらしい心意気がなかったら、これらの恩恵は今存在していない。
和田清かとの縁に改めて感謝である。
投稿者 多苗尚志 : 10:32
| トラックバック (0)
[ 和田清か伝
・縁
]
99.08.12 木曜日
夏の英雄日
99年夏、多苗大学三年の夏。
“candyrock=”神田恵介が自ブランドのプレゼンテーションを鹿児島の学生たちに熱望された。
当時、彼のプレゼンテーションを全て目に修めていた己は
今回も当然征くということで、ふたりで鹿児島に飛び立った。
当然、旅費などないのでヒッチハイクで征くことになる。
ケイスケにしてみれば人生初のヒッチハイク旅行で己はそれを先導する。
余裕をみて出ていたので広島に差し掛かった時点で、鹿児島まであと1日余裕がある。
どこかに寄っていこうと話が出たとき、己の頭にフッと
“豪傑”原田広太郎の存在が思い浮かんだ。
奴は福岡の出身でもしかしたら帰省しているかもしれない。
帰省しているかもしれない、というが大学生の夏休みだ。長い休み。
だからこのタイミングで奴が還っているかどうかわからないし、海外にいるかもしれなかったが、とにかく電話してみた。
すると、「おぉ!今年の夏はね、みんなでうちの実家にいこうっていうことでみんな集まっとるばい。ひさし、村上玄ちゃんって知ってたっけ?」
「ああ、知ってるよ。広太郎に紹介してもらった。」
「そうそう。」
「己もね、今九州にきとるんよ。」
「おお!」
「熱い友達と一緒でさ、今日寄ってもいいかい?」
「あ、絶対来て!」
福岡に着くと、昼飯をみんなで喰おうということで
広太郎のお父さんのいきつけのイカの刺身がメチャクチャうまい店にみんなで征くことになった。
広太郎のお父さんがまた豪気という気をまとったような人で気持ちのよさそーな人だった。
日本でも有数の菓子屋の社長であった。
長机に広太郎や広太郎のご家族、友達(境界がよくわからんかった。)、ケイスケと己が
並び今からイカをくわんという時に
“快男児”村上あらしと“京倭”小林篤がコンビで現れた。
今まで色々な名コンビをみてきているし、己自身も誰彼と名コンビを組んでいると思うのだが、
この時のふたりの登場はまさに阿形(あぎょう)と、吽形(うんぎょう)2体で一対の
金剛力士仁王像のようなインパクツ!!!
京都からスポーツカーを飛ばして来たというからかっこいいじゃないか。
あらしは全身黒ずくめで現れた。
己は、広太郎とは個人で仲がイイモノのまだ彼の周りの人脈とは溶けていなかったし、
彼の家族もいわんやをやで、いわばアウェーの場だった。
一方、あらしも似たような状況だったと思うのだが、
彼は初対面の者が多い中、広太郎のお父さんから「君は今なにをやってるんだ」と問われこう答えた。
「自分は今、会社をやっています。今のうちに失敗をしたいと思っています。失敗ほど勉強になるものはありませんから。」
圧倒的な第一印象だった。
あつしは確か、灰色のような、特にハッキリとした服装ではなく、特になんの言動が目立ったわけではなかったが、現れた瞬間に「あ。こいつは己と相当近しい仲になれる」と直感した。
あつしもまたあらしとは違った文脈で誰とでも仲良くやれる気持ちのいい倭だった。
結局、熱い倭と美女たち15人くらいが集まったか。
ざっと名前が思い出せるのが
“豪傑”原田広太郎
村上玄一
“快男児”村上あらし
“京漢”小林篤
原田陽太郎
“candyrock=”神田恵介
みんなでとんこつラーメンを食べにいったり、
花火戦争をやったり
サルサバーでサルサを踊ったり
広太郎の実家でギターを弾いたりしてつぶれるまで呑んだり…
もうこのメンバーでの再会はない。
99年、一日だけの英雄日だった。
投稿者 多苗尚志 : 19:12
| トラックバック (0)
[ 神田恵介伝
・小林篤伝
・村上あらし伝
・原陽太郎伝
・縁
]
06.07.21 金曜日
藪下数馬壮行会
己の大好きな倭(おとこ)、“正統な異端者”森村隆行(森さん)に弟がいることは早くから聞いていた。
一緒に中国に旅行にいった話を聞いていて、その旅行記が気合武勇伝的で己好みで
その弟に会いたいと思っていた。
それが“若社長”森村泰明。
やすあきと己は同い年である。
やすあきとはいつが初対面か覚えていない。
どこかで森さんに紹介してもらった。
が、そのごくごく初期、渋谷のぷん楽で森さんとやすあきと3人で呑む機会があった。
ちょうどやすあきはそれまで勤めていた不動産ディベロッパーの会社を辞め、
自分でオフィス専門の不動産会社を設立。
それが「オフィスバンク」だ。
その独立の話を3人でぷん楽でしていたら、突然森さんが
「あ!」
「ひさしに取締役になってもらったら?」
今は違うが、当時は会社の設立に3人以上取締役を立てなければならず、
それにお母さんがなるはずだったのだが、あまり血縁をいれたくないと思っていて
どうしようかと思っていたところだったのだ。
己はホレ、出会って2回目の“柔らかい頭領”佐藤孝治に「多苗君も僕たちとルームシェアしませんか?」と言われて2日後に住んでいるような
『向かい来るオファーは全て受けきる侠』だからさ。
(※利害が見え見えだったり、礼と義を失したオファーは受けない。)
「はぁ」っつって取締役になった。
オフィスバンクと己の関係はそんなものに過ぎなくて
それでも、一応取締役だからってことで、忘年会など各種祭礼や節目の時なんかは
お呼びがかかる。
長くなったが今日は、そんな日だった。
社員の藪下数馬がオフィスバンクを退職するので、その壮行会があった。
まさに森村泰明と会っていなければ、森村隆行と会っていなければ
藪下氏と己の接点はなにもなかったわけで、奇縁に感謝である。
己は一応、取締役だから、やすあきひとりで、1人用のワークスペースにいた時から
知っている。
どんな会社になっていくのかと思ったが、今では社員も15人を越えた。
そして、今ひとりが新しい旅立ちに向かって辞めようとしている。
己は、普段のオフィスバンクも最近のオフィスバンクも知らない。
藪下数馬とも「おー、藪ちゃん」とあいさつは交わすものの特に語り合ったこともない。
静観する。
森村泰明率いるオフィスバンクは成長していて
社員も、社の文化もすばらしいものがある。
藪下数馬の壮行会はすがすがしい涙にあふれていて、
己は
「熱血の者」「努力の者」「成長する者」「本気で生きる者」たちを
目の当たりにしたのだった。
すごい
すごい
会社ってすごい。
メチャクチャ熱い。
ドラマみたいな展開が居酒屋劇場でバシバシ繰り広げられていたよ。
スゲェいいものを魅せてもらいました。
藪ちゃん、いってらっしゃい。楽しんで生きていこうな。
投稿者 多苗尚志 : 22:24
| トラックバック (0)
[ 栗原義徳伝
・村野茉文伝
・藪下一馬伝
・森村隆行伝
・森村泰明伝
・佐藤孝治伝
・株式会社オフィスバンク伝
・縁
]
06.05.26 金曜日
太陽モーニング
■友いるバックグラウンドストーリー
※友いる筆者の多苗本人以外の視点で物語を編んでみます。
憶測の部分もあることを予めご了承下さい。
その倭[おとこ]は昔、“釈迦力小僧”と呼ばれていた。
「眠い」とか「腹減った」とかは言うけれども、彼が「疲れた」と言うのを聞いた者はいない。
彼は異常なまでの無尽蔵の元気でシャカリキに毎日を疾走していた。
その小僧は南米に丁稚奉公に渡り、その元気を太陽のレベルまで高め、順調に出世し王子になって
還ってきた。
“太陽王子”岩下均である。
これは彼が“釈迦力小僧”とすら呼ばれていなかった頃の物語。
1997年
東京都北区は王子で小・中・高と学校が一緒だった“咲花青将”佐藤吉行(当時“受切怠惰”)の部屋に岩下はいた。
高校二年生だった岩下は佐藤と学校の宿題をやっていたがそれを終わらせてみてホチキスがないことに気がついた。
岩下が「買ってこようか」といつもの元気を活かそうとすると
吉行は「いいよいいよ。下にあるから。」と答えた。
吉行の部屋は父親の会社の社員寮の1室であり、五階にあった。
下というのは四階にある兄の“柔らかい頭領”佐藤孝治の部屋のことだ。
佐藤孝治は90年代後半からルームシェアを展開しており、今でいうインキュベーションオフィスみたいなものを兼ねていた。
彼自身、事業を展開しようとしていたし、そこでシェアしている仲間たち、そこに集まってくる仲間たちもそうだった。
岩下も1,2回そこを訪れたこともあったが特にビジネスというものには興味がなかった。
ビジネスというと高校生の岩下にはなにか堅い感じがして、邪魔しちゃいけないという気持ちもあった。
今回も部屋の入口で待っているだけだった。
吉行がホチキスをとりにいってるあいだ、手持ち無沙汰だし入口からキョロキョロと室内を伺っていた。
パソコンが数台あって「へぇ」とは思っていたが、さして興味はなかった。
カタカタと誰かしらん数名がキーボードを撃つ音が静かに響く部屋の奥で
「ホチキス無い?」という吉行の声が小さく聞こえる。
飲食店用の四面ガラス張りの大きな冷蔵庫がある。
それをみてちょっといいなぁと思う岩下。
自分の大学生活の部屋にもあんなのがあればいいなぁと思う。
と、その時
「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお」と
叫ぶ声が聞こえた。
吉行の声ではない。佐藤孝治の声でもない。
誰か。
ここが堅いビジネスオフィスだと思っていた岩下を動揺させるには充分な叫びだった。
「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお」
叫び声は更に続いた。
吉行がホチキスをもって還ってきた。
(なんなのあの叫び?)と小声で吉行に聞いてみた。
吉行は(わかんない。なんか興奮してる人がいた)と答えた。
「「お邪魔しましたー」」と2人で部屋を出ていこうとする間際
佐藤孝治の声で
「タナエ君、どうしたの?」という声が聞こえた。
「いや!熱いメールが来たッス。」
意味が分からなかった。
四階にもこんな人がいるんだ。
これが岩下均と多苗尚志の初めての出会いだった。
1998年夏
岩下は他の多くの高校生と同様に三年生の夏を受験勉強に燃やしていた。
吉行の部屋で豪田と一緒に3人で勉強していたところ、突然ドアが空いて侠[おとこ]が入ってきた。
ファッションセンスのかけらもないメガネ。寝ぐせのついた髪、よれよれのトレーナー。
岩下はこの侠があの時のタナエであることを直感で感じ取った。
「吉行君、マガジン無い?」
「え?あ、ありますよ。」と答える吉行から多苗はマガジンを受け取るや、
畳にごろりと寝転がりそれを読み出した。
どうみたって受験勉強してる雰囲気の中にいきなりあがりこんできて
寝転がって漫画を読み出す侠に岩下は少なからず驚いていた。
「あ。タナエさん。僕の友達の均と豪田です。」
「ん?」寝ながら目線を向けられ、岩下は
「あ、岩下と言います。」とあいさつをした。
侠はガバッと起きあがると「多苗と申します。よろしくお願いします。」と言って
またごろりと横になった。
「あの、四階にいらっしゃる方ですよね」と岩下が言うと
「うん。そうだよ。」と多苗は答えた。
「大学にいってらっしゃるんですか?」
「うん。三年です。」
「P大ですか?」
「うん、そう。」
「僕もP大狙ってるんですよ。」
「あ、そう!」と大きな声を出すと多苗は起きて座り、岩下を正視した。
すぐに「頑張るといいよ」と言ってごろりと寝た。
いつまでも話していられないので岩下もそれくらいで勉強に集中することにした。
30分くらいすると、受験生同士、情報交換を始めた。
「P大はさぁ、やっぱ英語ができないと勝負になんないよね。日本史とかさ、差がつかないし、
現代文は勘じゃん?」と豪田がいう。
「だよなぁ、やっぱ英語かぁ」と岩下も相槌を打っていた。
多苗に横目を向けると全然気にしてないようで漫画を読み耽っていた。
豪田が続ける。「やっぱ単語力が圧倒的に足りないよな。佐伯とかも言ってたけどやっぱ単語覚えないと
話にならないって。やっぱP大いくんだったら最低3000は覚えないとね。単語分かればあとは大体読めるようになるって。」
「そっかぁ」と言ってると、多苗が漫画を置いて座り、こちらを苦虫を潰したような顔でみている。
『なぜ自分にアドバイスを求めないのだ』とでもいうのだろうか。
岩下はそんなことを聞いたら悪いかなと気遣っていたのだ。
多苗はおもむろにしゃべり出す。
「P大を目指すんだったら、現代文こそやらなくちゃダメだ。現代文は勘だと思ってるだろ。
論理だ。論理が分かればば確実にそれが答えだと説明できるまでになる。英語だって同じだ。
単語はむしろ少なくたって論理が分かれば勝負できる。岩下君、己が使ってた教材とか貸してやる よ。」
1998年冬
四階のインキュベーションオフィスから飲食店が生まれた。
藤沢烈が経営者となった「狐の木」というBarで岩下も高校生ながら時々遊びにいっていた。
多苗はそこでオープニングスタッフをやっていたようだったが2ヶ月でクビになったらしい。
今では王子を離れて大学の近くで一人暮らしをしているそうだが、1ヶ月に1回は店に呑みにくるという。
岩下は彼女と呑んでいた。
呑むといってもモスコミュールくらいのもんで、彼女はノンアルコールだ。
多苗が店に入ってきて、カウンターに座ったのがみえた。
岩下は少し時間を置いてからカウンターの多苗の方にあいさつにいった。
「どうも。」
「おっ!えーと…吉行君の友達のえーと、均君!」
「はい。岩下です。あの…ちっと俺の彼女紹介したくって。」
「ああ、どうも多苗と申します。」
「あと、あの手紙書いてきたんで後で読んでください。」
「手紙?は。ありがとう。わかった。」
岩下は、お金を払うと彼女と共に店を出た。
「手紙ってなんなの?」と彼女に聞かれ、岩下は
「ああ、まぁ、ラブレターだね。
男にラブレター出すのは初めてだよ」と答え、彼女の不審を思いっきり買った。
岩下は、ラブレターとはいうもののまるで緊張しなかったし
水が高いところから低いところへ流れるように
鮭が生まれた川に戻ってくるように
そうすることが当たり前のような、清々しい気持ちで一杯であった。
そのすがすがしさがまた彼女の不審を買った。
店のカウンターには多苗が尚、座っていた。
なけなしの金でスコッチを傾けながら多苗は岩下からもらった手紙を開けてみた。
『これからは受験勉強に集中するので春まで会えないと思います。
必ず合格して春からはタナイ兄貴についていきます。
よろしくお願いします。
岩下均』
多苗がタナイになっているイマイチっぷりはどうかとして、
まぁ、自分も彼の苗字を覚えていなかったのだから。
しかし、なんだか彼は感じるものがあったようで自分についてくるのだということだ。
こっちも彼に正面からつきあってみるとするか。
と、多苗は思った。
岩下は多苗を兄貴と呼んだことはない。
兄貴と字面にして多苗に宛てたのもこれが最初で最後である。
だが、確かに岩下と多苗の歴史はこの日動き始めたのだ。
■友いる出来事
※実際の出来事です。
“太陽王子”岩下均と渋谷で朝食を一緒に摂る。
ちょっと互いに努力すれば朝飯を一緒に喰う時間を作れると知ったのだ。
ほんの30分しか一緒にいられなかったけれど、こいつと一緒に朝飯を食えるなら
至福です。
投稿者 多苗尚志 : 19:44
| トラックバック (0)
[ 岩下均伝
・縁
]
05.10.28 金曜日
縁
奴との初めての出会い
あの縁があったから今がある
そんな話がこちらの『縁』のカテゴリになりやす。
投稿者 多苗尚志 : 23:57
| トラックバック (0)
[ 縁
]
和田清かとの縁、私には夢があるとの縁
今では随分有名だが「私には夢がある」という会社がある。
“夢プロデューサー”和田清かが会長をつとめる会社。
己はこの会社の一番古株のスタッフだ。
その縁をたどってみよう。
“黄炎社長”森田英一とは古くからの友人である。
その彼に、2002年の3月だったか…彼女ができたから紹介したいと言われた。
それまでわざわざ紹介されたことはなく、これはただごとではないなと思った。
京王線か東横線のどっかの町だったなぁ。
当時はその沿線に明るくなかったので忘れてしまったが、どっかにあった
彼女の家に招待された。
そこで出会ったのが和田清かだった。
招待されていたのは己だけではなくそこで
“駆け抜ける麗玲礼”山西礼子
江澤博己
“大将”池本多賀正
“ギャオギャオなギャオス”長尾好則
“Dreamtextwriter”岩村匠
和田聖翔
といった現在の己の日常生活にも影響のある超豪華なメンツにそこで一気に出会う。(感謝)
清かは己のことを知っていたらしく、年下のくせに初対面から呼び捨てにしてきた。
自分は特別だと思っていて誰だろうがさやか節でぶつかるさやからしい行動だが、
こちらとて“最強無敵”の看板の多苗尚志。
相容れるわけがない。
バッドファーストインパクトだったがまぁ印象には残った。
当時、さやかも己も無職だった。
さやかは起業したいと思って会社を辞めたところだった。
己は仕事なんかしないで友達と毎日遊んでいたいと思って会社を辞めたところだった。
さやかと己はメールをやりとりするようになった。
お互いパラノイアのようにメールを返信するタイプで、ただ一言「了解」なんてメールにも無理矢理返信を続けるのでいつまで経っても往信が途絶えず、
別件で新しくメールを出すとそれがまたずっと続くといった感じで今も続いている。
(一番最多で205往復目。全部足せば1000往復を超える。)
彼女とのメールのやりとりには印象的な思い出がある。
さやかが起業したいけどやっぱり怖くてなかなか行動に移せないというメールをくれていて
己も同じようなものでイマイチなにがやりたいか分からないし、行動あるのみだと思うけど、
なかなか行動に移せないという返信をした。
フツー、ここで「ねぇ~、なかなか現実難しいよねぇ」みたいな感じで収束するようなもんだが、
さやかはその恐怖を乗り越えちゃんと「私には夢がある」を起業した。
クチだけじゃなくしっかり結果を出す彼女と結局クチで終わってる自分が見事に対照的だった。
さやかはなんにもしないでいるんだったら…と己を第一回目の夢あるセミナーに誘ってくれた。
己は「興味はあるけどお金がなくて」とココでもチキン発言を返したが
さやかが「大丈夫。お金なんて要らないから。それでもしよかったら、受付をやってね。」
と言ってくれた。
さやかだって金があるわけではない。
己はさやかの心意気に感激し、受付をつとめ、以来、夢あるでは“コンプレックスを太陽に変えるひまわり”岩崎久美と同じく最古参のスタッフである。かつ己は最も出席しないスタッフでもある。
更に最も夢あるから受けた恩恵を語らないスタッフでもあるが…
よくよく思い返してみると、その恩恵は多大だ。
“スピードの哲人”清水宣晶とはその後の森田英一・和田清か結婚式で出会ったから正確には夢あるでの出会いではないにせよ、その他のすばらしいスタッフとの出会い、スタッフではなくても夢あるを通して出会った方々とのつながり、夢あるセミナーによる様々な気づき。
さやかと出会っていなかったら、更には夢あるとつながるチャンスをこっちから斬ったのにそれを向こうからあきらめないでつないでくれるというさやかのすばらしい心意気がなかったら、これらの恩恵は今存在していない。
和田清かとの縁に改めて感謝である。
投稿者 多苗尚志 : 10:32
| トラックバック (0)
[ 和田清か伝
・縁
]
99.08.12 木曜日
夏の英雄日
99年夏、多苗大学三年の夏。
“candyrock=”神田恵介が自ブランドのプレゼンテーションを鹿児島の学生たちに熱望された。
当時、彼のプレゼンテーションを全て目に修めていた己は
今回も当然征くということで、ふたりで鹿児島に飛び立った。
当然、旅費などないのでヒッチハイクで征くことになる。
ケイスケにしてみれば人生初のヒッチハイク旅行で己はそれを先導する。
余裕をみて出ていたので広島に差し掛かった時点で、鹿児島まであと1日余裕がある。
どこかに寄っていこうと話が出たとき、己の頭にフッと
“豪傑”原田広太郎の存在が思い浮かんだ。
奴は福岡の出身でもしかしたら帰省しているかもしれない。
帰省しているかもしれない、というが大学生の夏休みだ。長い休み。
だからこのタイミングで奴が還っているかどうかわからないし、海外にいるかもしれなかったが、とにかく電話してみた。
すると、「おぉ!今年の夏はね、みんなでうちの実家にいこうっていうことでみんな集まっとるばい。ひさし、村上玄ちゃんって知ってたっけ?」
「ああ、知ってるよ。広太郎に紹介してもらった。」
「そうそう。」
「己もね、今九州にきとるんよ。」
「おお!」
「熱い友達と一緒でさ、今日寄ってもいいかい?」
「あ、絶対来て!」
福岡に着くと、昼飯をみんなで喰おうということで
広太郎のお父さんのいきつけのイカの刺身がメチャクチャうまい店にみんなで征くことになった。
広太郎のお父さんがまた豪気という気をまとったような人で気持ちのよさそーな人だった。
日本でも有数の菓子屋の社長であった。
長机に広太郎や広太郎のご家族、友達(境界がよくわからんかった。)、ケイスケと己が
並び今からイカをくわんという時に
“快男児”村上あらしと“京倭”小林篤がコンビで現れた。
今まで色々な名コンビをみてきているし、己自身も誰彼と名コンビを組んでいると思うのだが、
この時のふたりの登場はまさに阿形(あぎょう)と、吽形(うんぎょう)2体で一対の
金剛力士仁王像のようなインパクツ!!!
京都からスポーツカーを飛ばして来たというからかっこいいじゃないか。
あらしは全身黒ずくめで現れた。
己は、広太郎とは個人で仲がイイモノのまだ彼の周りの人脈とは溶けていなかったし、
彼の家族もいわんやをやで、いわばアウェーの場だった。
一方、あらしも似たような状況だったと思うのだが、
彼は初対面の者が多い中、広太郎のお父さんから「君は今なにをやってるんだ」と問われこう答えた。
「自分は今、会社をやっています。今のうちに失敗をしたいと思っています。失敗ほど勉強になるものはありませんから。」
圧倒的な第一印象だった。
あつしは確か、灰色のような、特にハッキリとした服装ではなく、特になんの言動が目立ったわけではなかったが、現れた瞬間に「あ。こいつは己と相当近しい仲になれる」と直感した。
あつしもまたあらしとは違った文脈で誰とでも仲良くやれる気持ちのいい倭だった。
結局、熱い倭と美女たち15人くらいが集まったか。
ざっと名前が思い出せるのが
“豪傑”原田広太郎
村上玄一
“快男児”村上あらし
“京漢”小林篤
原田陽太郎
“candyrock=”神田恵介
みんなでとんこつラーメンを食べにいったり、
花火戦争をやったり
サルサバーでサルサを踊ったり
広太郎の実家でギターを弾いたりしてつぶれるまで呑んだり…
もうこのメンバーでの再会はない。
99年、一日だけの英雄日だった。
投稿者 多苗尚志 : 19:12
| トラックバック (0)
[ 神田恵介伝
・小林篤伝
・村上あらし伝
・原陽太郎伝
・縁
]