一浪目、キムと己は駿台予備校柏校に通っていた。
第一期生だった。
一年後、そこは新設校ながら全国系列中最下位というグレイトな成績をはじき出すことになる。
浪人してからの己は自分を孤独に晒したいと考えていて意図的に人間関係を切っていた。
自分からは友達の輪に入らず、話し掛けず、話し掛けられても最低限のことしか話さなかった。
それはキムとて対象外ではなかった。
が、奴とだけは週に一回、必ず会っていた。
それは正確だった。
毎週金曜日の昼休み。
必ず二人で『ボンベイ』に食いに行くのだった。
そのころの己はまだまだ甘ちゃんで辛いものがダメだった。
辛味を増やしていない普通の辛さのカレーからしてヒイヒイ言っている己を横目にキムは(メニューに載っているものでは)上から三番目に辛いレベルに挑戦していた。
「水はね、呑まない方がいいんだよ」
この鉄則を教えてくれたのがキムだった。
水を呑むと次の一口が余計辛く感じられるし、なにより水を呑むことで味やリズムが中断されてしまう。
とても勿体ない。食はリズムだ。
己はキムからその教えを受けて以来、おいしいカレーを食べてる途中に水を呑んだことはない。
キムとは実に三段階も差があった。
己が[普通]でキムは[極辛]。
辛さのレベルをここで紹介すると、[普通]の次が[ちょっと辛]。その次が[辛口]。その次で[極辛]。
[極辛]の次は[超極]だ。
その差はかなり大きい壁に思えたが、いつか奴に追いついて、
二人でメニューにはのっていない伝説の[超超極辛]を食べる日を夢見ていた。
己達には水を呑まないこと以外にもいくつか暗黙のルールというかポリシーがあった。
1.テーブルには座らずカウンターに座ること。
2.先に漬け物としてタマネギの酢漬けとピクルスが同じ皿に出てくるがタマネギには手をださず残すこと。
3.必ず大盛りを頼むこと。
4.ご飯はどっちも大盛りだから猫舌のキムが先に受け取り扇いで冷ましていること。
5.口を付けだしたら水は呑まないこと。
6.サーブされるまでは店の中で一番うるさく騒いでいるが食事しだしたらほとんど言葉を交わさないこと。
7.食後のコーヒーはキムが砂糖を入れて己は入れないこと。
8.お金を払ったら「ごちそうさま」 とあいさつして店を出ること。
これらのルールを特に確認したこともなかったが、必ず守っていた。
毎週毎週、雨の日も風の日も正確にこのルールを履行していた。
そもそも『ボンベイ』にいくときからしてお互い「行こうぜ」とも言わず正確に毎週金曜日に店で落ち合っていたのだ。
思い出してみればあの時はカレーに終わらず全てにおいて『暗黙の…』というものにこだわっていた。
哲学者の言をもじってみて「余計なことについては沈黙しなければならない」。そんな感じだった。
言わなくても分かる。超ツーカーな関係。ルパンと次元。それが己達二人の目指していたものだった。
昨日観たテレビの話をするときには絶対題名は言わない。「アレさぁ…」で始める。
何も言わずとも二人とも同じモノを観ているに違いなかった。
待ち合わせ場所を特に確認せずともそこで落ち合う。そこで待ってるに違いなかった。
対戦格闘ゲームは互いの四手くらい先を読んで闘っていた。
電話をとったときはお互い名乗ることもなくいきなり会話が始まる。
己達に言葉はいらなかった。言葉は野暮だった。
少しストイックでスタバンで劇画的な二人だった。
一浪の秋頃、遂に己は[ちょっと辛]を食べれるようになった。うれしかった。
何度かの失敗があって食べられるようになったのではなく、もういい加減大丈夫だろうというときにレベルを上げた。
[ちょっと辛]でもだいぶ辛かったけれども、耐え抜いて食べきった。
これからはこの[ちょっと辛]に慣れていく。
やった。うれしかった。
しかしというか、当然というか時同じくしてキムは[超極辛]に挑戦するようになった。
[超極辛]は、もうソースの色からして違うのだ。
赤かった。
スプーン一杯だけもらったことがあったが(ルール違反だったかもしれない)とても食えたものではなかった。
そして遂にキムは大学に受かり予備校を卒業し、己は二浪が決定した。
キムはとうとう[超超極辛]までは辿り着けなかったし、己にいたっては言うまでもない。
さん巻きへ続く
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